トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

Web雑誌の時代

・・・雑誌の時代は偏りこそが重要だった。限られた誌面の中で何を取り上げ、何を取り上げないか。そこにその媒体の編集方針が反映され、送り手の意志が見えてくる。そうやって雑誌は自らをブランディングし、固定読者を獲得してきた。送り手と読み手の関係はおのずと濃くなるし、それはそれでもちろん素晴らしいことだ。
だが、そうした雑誌のあり方を「メディアの理想像」としてそのままウェブサイトに適用するのは、今やなかなか難しいように思う。なんといってもウェブの読者は移り気だ。移動や休憩の時間に目を引く記事を見つけたらなんとなく読み始め、少しでもつまらなかったり読みづらかったりしたなら、あっという間に離脱してしまう。だからこそナタリーでは記事の数を増やし、読者が興味が持ちそうな選択肢をなるべく多く提示することを心がけている。
(中略)どんなに丹念に作り上げたサイトも、ウェブという巨大な場の中のごく一部でしかなく、その境界線はひどくあいまいで、読み手はいつでもどこにでも行くことができる。ウェブの世界ではその自由こそが重要なのだ。何を読むか/読まないかについての選択権、主導権は読者の側にある。例えばあなたが街角に立って、あっちに行けとかこっちを見ろとか言われたらきっとイヤだろう。世界中の好きなところを自由に訪れたいと思うはず。自分はウェブサイトを運営するときにはその感覚を尊重したいと思っている。
だからナタリーではいわゆるキュレーション(=読者が受け取る情報を絞り込むこと)はしない。世の中にあふれる情報を片っ端から集めてきて、恣意的なセレクトを極力せずに送り出すだけだ。今は1日に100本ほどの記事を配信しているので、仮に1記事あたり800字だとしても100本あれば8万字。そこに数千字規模の特集記事が何本か追加されると、薄い新書1冊分に相当する分量になる。それらのテキストを毎日残らず読むのは普通の人には不可能だろう。だから読者はその中から、自分の好みや感性に引っかかったものだけをつまみ食い的に読んでくれればいい。

大山卓也 「ナタリーってこうなってたのか」(2014)双葉社 pp.70-72


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お手伝い日記

劇団でこじるしーさんの公演のお手伝いに行って来ました。
でこじるしーというのは放課後等デイサービスを行う地域交流センターで立ち上げられた劇団さんで、以前もお手伝いしたことがあったりします。
出演者達の障害は様々で、大きな声が出ない、声は問題ないが速い動きは難しい、動きはともかく長い台詞は無理などなど人によって制約があるので、それぞれに対応しつつ皆が活躍できる様にするための、身体的相違に基づく合理的配慮とかいうものを考えさせられました。言うは易く行うは難しです。
今回はピンマイクを導入したことで、声の小さい出演者の役に立った様です。文明の力ってすごい。

読書の工夫

小説というものの一番普通の魅力は、読者に自分を忘れさせるところにある。自分を忘れ、小説中の人物となり、小説中の生活を自らやっている様に錯覚する。(中略)むろんこれは、小説というものの根本の魅力であり、こういう魅力を持たぬものは、小説とはまず言えないのであるが、普通の読者はこの魅力以上の魅力を小説から求めようとはしない。前にも書いた通り、耳をふさいで冒険小説を読む子供の小説の読み方から一向進歩しようと努めない。
自分を忘れ去るという習慣は、小説の濫読によっていよいよ深くなって来る。つまり小説を無暗に読んでいる裡に、自分を失い、他人を装う術が、知らず識らずに身に付いて来るのである。(中略)実地に何かやってみるまでもなく、小説を読んでいれば実地に何んでもやっている気になれるので。実地に何もやらなくなる。
(中略)この様な事になるのも、小説の読み方というものを真面目に考えてみた事がないからだ。ただ小説を、自分を失う一種の刺激の様なものとして受け取っているからだ。だからやがて中毒するのである。
これは小説ばかりではない。いろいろな思想の書物についても言える事だ。読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が眼覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。・・・(後略)

小林秀雄 「読書について」(2013)中央公論新社 pp.50-53


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分岐型演劇についての覚え書き

あまりゲームはしない方ですが、「サクラ大戦」シリーズは真面目にやりました。
いわゆるギャルゲーで、ヒロインその他の登場人物との会話・行動について選択肢が用意されており、相手の好感度の上がる選択肢を選ぶシステムです。
サクラ大戦が秀逸なのは、明らかに正答ではないだろう選択肢が凝っていることで、

(下記内容のシーン、全タイトルで全ヒロインに用意されています。確信犯です。)

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手塚漫画もまた高尚になりつつある

中学にあがった昭和三十四年、それまでずっと小学館の学年誌を購読していたぼくが、何のためらいもなく同社発行の「中学生の友・一年」を差し置いて、学研の「中一コース」に乗りかえたのは、むろん理由がある。
手塚治虫の「ベニスの商人」が別冊フロクについていたからだ。
感無量だった。
内容の前にまず、こともあろうに中学生向きの学習雑誌に、マンガのフロクがついた。
(中略)
五・六年生にもなって、まだマンガを読んでいる子は「問題児」あつかいされかねない時代だったのだ。昭和三十年代というのは。
だから――。
「中一コース」についた別冊フロクは、ヒステリックなPTAや教育委員会をなだめすかすように、表紙に麗々しく「シェークスピア原作」と謳わなければならなかったのだ。「冒険活劇マンガ」を載せるわけにはいかなかったのだ。大文豪の名作であれば、とりあえず親と教師を黙らせることができたのだ。“学習誌”の面目が保てたのだ。
(中略)
まさにこうして、少しずつ、マンガはより高年齢層へ向けて読者を広げていったのだ。
劇画出現までは手塚治虫を旗手として。

みなもと太郎によるあとがき 「手塚治虫マンガ演劇館」手塚治虫 2001年 筑摩書房 pp.441-443


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