トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

長台詞

・・・胸を高鳴らせて窓辺からホスローの姿を見守るシーリーン。月明かりのもので沐浴するシーリーンの美しさに見惚れるホスロー。あらゆる恋人たちが見交わす優雅にして繊細な眼差し。井戸のたもとで白い悪魔を縊り殺す勇者ロスタム。愛のあまりに正気を失い、荒野でトラや高山に住むヤギと心通わせるマジュヌーンの悲哀。雌オオカミと番いたいばかりに、夜な夜な羊の群れから一頭ずつ差し出した挙句、木に吊るされる意地汚い牧羊犬。花々や天使、葉の生い茂る枝や小鳥、あるいは流滴文様で飾られた頁の枠装飾。ファーフェズの精妙な詩片に華を添えるウード弾きたち。幾千、幾万という徒弟たちの目を潰し、名人たちの光を失わせた壁面装飾。門の上に掲げられ、あるいは壁面にかけられた銘板や、挿絵の場面を分かつ枠線の中に忍ばされた詩の対句。壁のたもとや隅っこ、破風や人の足許、灌木の下や岩々の間に隠された控えめな署名。恋人たちを覆い隠す掛布団や花々。いまは亡き今上陛下の曾祖父君が、勝利を目前にして敵方の要塞に襲いかかる場面で、端の方にものも言わずに転がる異教徒たちの首級。異教徒の大使が祖父君の服の裾に接吻するとき、画面の奥の方に――たしかあの本の製作には、若いそなたも加わっていたな――見える大砲や小銃。そして天幕。角つき、角なし、尻尾つき、尻尾なし、歯やら爪やらの尖った悪魔たち。利発そうなヤツガシラやそこらを跳ねまわるスズメ、幼いトビや詩を囀るナイチンゲールをはじめとする何千羽もの鳥たち。呑気な猫たち。物憂げな犬たち。気ぜわしげに流れゆく雲。何千回と繰り返し描かれた可愛らしい背の低い草や慣れぬ手つきで陰をつけられた岩。預言者様もかくやという忍耐強さによって、一枚一枚の葉が描きこまれた何万本ものイトスギにスズカケノキ、それにザクロ。ティムールやタフマースブ王の時代にまで遡る王宮に範を取りつつも、さらに古い時代の伝説を彩る宮殿や何十万枚というタイル。草原に咲く花の上や、春の樹木の木陰に広げられた絢爛豪華な絨毯の上に坐し、乙女と美童の奏でる楽の音に耳を傾けて悲嘆にくれる何千人もの王子たち。――挿絵を彩るタイルや絨毯のまったき美はな、この百五十年というもの東はサマルカンドから西はイスタンブルまで、幾千もの徒弟たちが笞で打たれ、こぼしたその涙にこそ負うているのよ。ほれ、そなたとて、いまだにひたむきさを失わずに描くではないか。壮麗な庭園やトビを。予期しえぬ死や戦場を。優雅に狩りに興じる皇帝や、同じように優美に怯えまどう鹿たちを。死んだ王や捕虜となった敵を。異教徒どものガレオン船や敵方の都を。星の瞬く夜の闇――そなたの筆から闇がこぼれ落ちたかのように輝いていたな――や幽霊のように不気味なイトスギを。それに赤く塗りあげられた愛と死の絵を。・・・・・・
オルハン・パムクわたしの名は赤〔新訳版〕(上)」 2012年 早川書房 pp.120-121

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絵本とかお好きですか

第3回 居留守de絵本市
に行って来ました。

普段ほぼほぼ縁が無いので、興味本位で参加した感じです。会場で「やっぱり絵本とかお好きなんですか?」と聞かれて「いえ全然」と答えたこのコミュ障っぷり。
行ってみてわかったことは、絵本は子供が読むもので、絵本が好きな大人というのは子供好きなふんわりしたお姉さんだろうというステレオタイプな思い込みが自分にもあったんだなということでした。そして全くそんな面子ではありませんでした。

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趣味がおよろしいことで

・・・趣味という言葉はもともと味覚の隠喩表現でね、グラシアンというスペインの思想家がbuen gustoと言ったのが最初だ。でもここで言う趣味は現在一般に使われている趣味の用法とは少し違うんだ」
「現在では、趣味というと好みのことを指すわよね。『蓼食う虫も好き好き」みたいな感じで。あと、ホビーの趣味かな」
「そうだね。でもグラシアンが言う趣味とはことのよしあしの直感的判断のことなんだよ」
「今の趣味の意味とはだいぶずれるわね」
「でも今でも言うだろ?『あの人は趣味が悪い』って」
「うん、言うけど」
「趣味が単なる好みの問題なら、それに良いも悪いもあるわけがない。ところが実際にはことのよしあしが関わっていることになる。古来から趣味の概念を巡って常に議論が為されているわけだけど、これを総括してバークという人は、趣味を見分けの能力だというふうに規定した。つまりことのよしあしを見分ける天分。・・・
森晶麿黒猫の遊歩あるいは美学講義」 2011年 早川書房 pp.120-121

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二人称その2

・・・小説の歴史には、ごく稀にではあるが「二人称」の作品が存在している。「うしろをみるな」(引用者註:フレドリック・ブラウン著「うしろをみるな」のこと)も一種の二人称だが、語っているのは「おれ」なので、一人称と二人称の合体だと言える。世に「二人称小説」が少ないのは、書くのが難しいということだけでなく、苦労して書いたとしても、得られるものが必ずしも多くはないからではないかと思われる。
その最大の理由は「うしろをみるな」で見たとおりである。「君」であれ「あなた」であれ、小説の中で(小説の中から)二人称で呼び掛けられる存在は、本当は、その小説を読みつつある者ではない。それは「君」や「あなた」と呼ばれている虚構内存在に過ぎないのだ。したがって、それは人称の問題というよりも、むしろ主人公の設定もしくはキャラクタライゼーションの範疇になってくる。二人称に見合った特殊な状況を用意しなくてはならなくなるわけである。
佐々木敦あなたは今、この文章を読んでいる。パラフィクションの誕生
慶応義塾大学出版会 2014年 pp.188-189

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役者は登場人物ではない

・・・普通の演劇の俳優=登場人物たちは、自ら「これは虚構である」とあからさまに述べ立ててみせているわけではない。むしろそこでは、舞台上と観客席が、いわば共犯的に「これは虚構である」に、気づかないふりをしているのだ。この「ふり」にこそ「演劇」というジャンルの汲めども尽きせぬ不思議さが宿っている。舞台上の人物が、これが虚構の物語であり、と同時に「演じられる劇」のドキュメントでもあるという事実を露わにするとき、それは「メタフィクション演劇」と呼ばれるのである。
佐々木敦あなたは今、この文章を読んでいる。パラフィクションの誕生
慶応義塾大学出版会 2014年 pp.89-90

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