トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

音楽の祭典はフランス発祥のイベントです

先週ですが、

音楽の祭日@国立民族学博物館

に行ってきました。楽しかったです。というのが本日の主旨。

カフェ公演だと十分な音響設備がなく、さりとて立派な小屋の高級機材を使いこなす腕もなく。BGMの生演奏というのはこれらの問題を薄ぼんやりと誤魔化し解決しつつ、味わい深い選択肢ではないかと思うのです。そして持ち運びできる程度に小さく、音程が幅広く、習得に時間のかからない楽器は無いものかと。

で、上記の催しを見た感じでは、小型のスティールパンが一番良い様に思います。音程をそこまで正確にとらなくて良いなら。。。
親指ピアノにも期待をかけていたのですが、音量的にピックアップが必須で、鍵盤のビビリを拾ってしまうことがあるので扱いが難しそうですね。あとガムランのグンデル(つまり鉄琴)も良いですが、ちょっと重そうな。カホンもメロディを奏でられないもののなかなか良いのではないかと。

そういうのを抜きにして、私はフリーパスの購入を検討する程度に(3ヶ月以内の前回の観覧券を提示してもお安くなります)みんぱくリピーターでして、常設の「音楽」展示や、たまに開催されるコンサート的催しにはちょくちょく足を運んでおります。プラネットホールみたいにアホな政治家に潰される前に、皆様も是非足をお運び下さい。楽しいですよ。

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芝居は映画より良いか

芸術作品を技術的に複製する方法のうちで、古代ギリシア人の知っていた方法は二つだけだった。鋳造と刻印とである。ブロンズ像とテラコッタが、また硬貨が、かれらが大量に生産しえた芸術作品であって、そのほかにはなかった。ほかのものはすべて一回限りの作品であり、技術的には複製できなかった。だからこそこれらの芸術作品は必然的に、永遠性をめざして制作された。芸術において永遠の価値を生みだすことを、ギリシア人はかれらの技術の段階ゆえに、余儀なくされていたわけなのだ。その事情のせいでかれらは、芸術史上に抜きんでた位置を占めている。そして後代のひとびとはその位置と比較してみることで、自然の立脚する位置を規定することができる。ぼくらの立脚点が、ギリシア人のそれとは対極にあることは、疑いない。芸術作品が質的にも量的にもこんにちほどに技術的に複製可能だったことは、かつてなかった。ぼくらは映画において、その芸術的性格が初めて隅々まで複製可能性によって規定されているひとつの形式を、もつに至っている。
ヴァルター・ベンヤミン 「ボードレール他五篇―ベンヤミンの仕事2」 1994年 岩波書店 pp.78

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神様とその他の変種終演

下記の公演のお手伝いをして来ました。
KAVCを大劇場と呼んだら笑われるかもしれませんが、普段せいぜいキャパ30程度の会場に慣れきっていたので、驚きの連続でした。操作席が広いって素晴らしいですね。上演時間が長くてもエコノミークラス症候群にならずに済みます。
あと脚本がケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の作で、何といいますか、ドリアンを食べていたら100m先からでも臭いでわかるという様な、全シーンからケラリーノ臭がぷんぷん漂ってきてすごかったです。優れた脚本にも色々種類がありまして、誰が上演してもおもしろいもの、素晴らしい芸達者が揃わないとそもそも上演不可能なもの、役者の裁量に任せる部分の大小などなど、それぞれある訳ですが、こういうのもあるんだなあと。
とりあえず座組の皆様、ご来場頂いた皆様、ありがとうございました。

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