トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

現代演劇は衰弱に向かっているとも言えるしいないとも言える

ウイングフィールド25周年特別企画シンポジウム「現代演劇は衰弱に向かっているのか?」②

に行って来ました。
その①は不参加なんですが、②の内容から察するに、1970年代にOMSこと扇町ミュージアムスクエアを中心に栄えた関西演劇の黄金時代の話だった様です。当時のイケてる若者はデートコースに「とりまOMS行っとく?」的ノリで演劇を組み込んだんだそうですよ。
パネリストの大半は当時生まれていたかすら怪しい世代だったので、実感の湧かない方も居られた様です。私も、今演劇が流行っているかと言われれば明らかに答えは否なのですが、流行っていた時代を知らないのでね。

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女性を演じること

先日、拙作を読んで頂く機会がありまして。皆様ありがとうございました。
その際、「この役は自分が『女』であることをわかっている女優が演じるべきだ」というコメントを頂きまして。
はて。
ちょっときちんと考えてみたいと思います。

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観劇日記

突撃金魚「僕のヘビ母さん」@突撃金魚アトリエを観ましたよ。

すげえ怖くて気持ち悪かったです。あ、誉め言葉です。
突撃金魚アトリエというのは普通の民家を改造したところだそうで。前回のアトリエ公演よりは空間を広く使っていた様に感じましたが、その分お茶の間感というか「よその人の家」感があり、ひいては「よその家庭の事情を垣間見てしまった」という気持ち悪さが引き立った気がします。

あと自分が今脚本を書いているところなので余計に思うのでしょうけれど、芝居の言葉は日常の言葉と違うというのを再認識しました。
サリngROCKさんの書く脚本は、日常における感情を描くのに語彙は日常から外れていて、そしてリズムがあるんですよね。これが文体というものか。私の文体って何だろうなあ。
そういや昔「サロメ」を上演した時に「日夏耿之介みたいなのやりたい!」と思って書いたら演出家から即刻却下されたことがあってですね。「勿(なか)れ」とか「暢ゝ(のびのび)」とか読めるか!とのことでした。独自の文体があればそれで良いという話でもないという。

話が逸れましたがそんな訳で、突撃金魚アトリエ公演未見の方はちょっと遠いですけど、行ってみてはいかがでしょう。

野垂れ死にしたこともない連中

「画家を目指す若者に、住居とアトリエスペースを無償で提供するというのは、いいこと尽くめのように見えて、結構リスキーだと思います。画家になるしかない、言い訳の利かない状況におかれれば、そりゃあ画家にはなりやすくなるでしょうけれど、画家以外のものに、なりにくくなります」
「・・・・・・それは、画家になりたくて、みんな入居するわけだから、いいんじゃないですか?」
「画家の卵が孵化できなかったとき、何にもなれないということですよ?それがどんな危険なことか、察しがつきません?言い訳の余地、逃げ道は残しておくべきなんです」
「はあ・・・・・・」
今日子さんの言うことが、どうにもぴんと来ない――何が問題なのか、判然としない。和久井翁がどういう思惑でアトリエ荘を立ち上げたにしても、その理念そのものは、画家を志す若者にとっては、望ましいものだと思うのだが。
「未来ある若者にとっては、他の選択肢だって、用意してあげるべきなんじゃないでしょうか?画家の才能があっても、画家にはならないという道だって、あっていい。私が言っているのは、そういうことです。おわかりですか?」
わからなかった。
西尾維新掟上今日子の推薦文」 講談社 2015年 pp.191-192


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先駆者の苦労

既に有名なところでは有名なんでしょうが、エルメート・パスコアールの「Feira de Asakusa(浅草の市場)」を聞きました。
こういったものの背景には、アーティストの長年の経験の中で生まれた独自の理論があり、それを裏打ちするテクニックがあるものだと思いますんですけれど。

新しいことをやるのは大変です(新しくなくても大変ですけど)。自分の経験や技術を総動員した上で、ひらめきやら何やらが必要です。手本にする前例も無いですし、「これっておもしろいんだろうか」と不安に思うこともあります。
なのでまずは既存の枠組みの中で一部分だけ新しいことをするか、まるきり新しいことをするにも、とりあえずは小品になりがちです。

つまり必死に考えた新アイデアが、形にしてみれば一瞬で終わる代物だったということもある訳で、それに意味が無いとは思いませんが、虚脱感はあるだろうなーと、何か微妙な気持ちになりました。
そういった努力は誰もがやることで、これはどの世界でも同じことなんですけどね。この積み重ねによって世界は前進して(という言い方が悪ければ変転して)いくのです。

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