トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

読書の工夫

小説というものの一番普通の魅力は、読者に自分を忘れさせるところにある。自分を忘れ、小説中の人物となり、小説中の生活を自らやっている様に錯覚する。(中略)むろんこれは、小説というものの根本の魅力であり、こういう魅力を持たぬものは、小説とはまず言えないのであるが、普通の読者はこの魅力以上の魅力を小説から求めようとはしない。前にも書いた通り、耳をふさいで冒険小説を読む子供の小説の読み方から一向進歩しようと努めない。
自分を忘れ去るという習慣は、小説の濫読によっていよいよ深くなって来る。つまり小説を無暗に読んでいる裡に、自分を失い、他人を装う術が、知らず識らずに身に付いて来るのである。(中略)実地に何かやってみるまでもなく、小説を読んでいれば実地に何んでもやっている気になれるので。実地に何もやらなくなる。
(中略)この様な事になるのも、小説の読み方というものを真面目に考えてみた事がないからだ。ただ小説を、自分を失う一種の刺激の様なものとして受け取っているからだ。だからやがて中毒するのである。
これは小説ばかりではない。いろいろな思想の書物についても言える事だ。読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が眼覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。・・・(後略)

小林秀雄 「読書について」(2013)中央公論新社 pp.50-53


亦と又の違いの分かる男、小林秀雄。
初出は昭和14年とのことです。この頃に既に「もしドラ」のAmazonレビューと同じことが言われていたとは、日本人の読書技術は進歩してないのか、進歩したから市井の読書家も評論家と同じ事を言うのか。つまりその本がラノベかどうかは客観的に測れることではなくて、真剣に読む読者にとっては純文学になり得るという話です。

真剣に読むということは、自分と相対することでもあります。底辺学生であったりニートであったりする読者が、本を読んでいる間だけニートであることを忘れるのではなく、無職とは何か、はたまた世界とは何かを考えたりして、実人生に対する姿勢が変わるのが真剣な読み方だと思います。
二次創作者もコスプレイヤーも中二病患者もグッズを大人買いする人も、みんなみんな真剣に本を読み、実人生に多大な影響を受けているけれど、それは中毒的な読み方を脱しているのかどうか。

多くの読者に真剣な読み方をさせるのが良い本なのだから、漫画でもラノベでも、もし本を真剣に読んだならそれはできるだけ大声で言うのがよろしい。つまりオタクに限らずただの一読者でも、自分はただ中毒的な読み方をしているのではない、この本はこれこれこういう読み方ができる本だ、読む意義があるんだ、という理論武装は備えておくに越したことはないと思います。それは自分とその本を権威付ける一助になるでしょう。
そして過去にヒットしたナンバーのフレーズを寄せ集めて作られた邦楽の様に、感情の刺激剤としての価値しか無い本は、無用とまでは言いませんが少なくとも読者は決して珍重するべきではありません。いくら資本主義社会でも、オタクが推す文化よりは評論家が推す文化の方が迫害は受けにくいのですから、市井のオタクも評論家と同じ気概を持つべきです。

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