トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

舞台を見ない時間

「私がしょっちゅう視線を宙に漂わせているのを見ても変に思わないで下さい。実際のところこれが私流の本の読み方なのでして、こうしないと読書の効果がないんです。ある本に本当に興味を感じると、私はほんの数行しか読み進むことができないんです、その本が提起する思惟や感情や問いかけやイメージに囚われてしまって、私の頭は別方向に脱線し、思惟から思惟へ、イメージからイメージへと飛躍していき、そうした推論や空想の全行程を行きつくところまで行かなくては気がすまず、その本から離れて、ついにはその本を見失ってしまうのです。私には読書の、滋養に富んだ読書の刺激が欠かせないんです。たとえどの本もほんの数ページしか読み進めなくともです。その数ページの中にだけでも私にとっては究めることのできない全宇宙が含まれているのです。」
「よくわかります」ともうひとりの読者が、読んでいる本のページから青白い顔を赤い目を上げながら、口をはさむ、「読書は非連続的な断片的な作業です。と言うよりも、読書の対象は粒状の、花粉状のものなんです。(中略)その本がもたらす真実が、その本の究極的な本質が、かろうじて関知しうるほどのひらめきとなって、啓示されるのはそうした裂け目を通してなのです。神話や神秘が蝶の脚の先についた花粉のように目に見えないほど小さな粒子で構成されているのであり、そのことをわきまえた者だけが啓示を、啓蒙を期待できるんです。そのために私は、あなたが言ってたのとは逆に、一瞬たりとも本の行から注意を怠るわけにはいかないんです。なにか貴重な手がかりを見逃すまいと思うと注意をそらしてはならないんです。こうした意味の凝塊した部分に行き当たるたびに私はその塊の部分が鉱脈となって伸びていないかどうか調べるためにそのまわりを掘り続けなくちゃあならないんです。そういうわけで私の読書は決して終わることがないんです、何度も読み返し、そのつど文章の襞の間に新たな発券を求めるんです。」

イタロ・カルヴィーノ 「冬の夜ひとりの旅人が」 脇功訳 1981年 松籟社 第十一章


本を読んでいたら先週のお題と似た様なことが書いてあったので、しつこく続けてみます。

昔ある知人が「芝居を観ていてふと別のことを考えて、また芝居に戻って来た時に困らない劇団っていいよね」と話していました。いやもっと真面目に見ろよと心の中で突っ込んだのですが、一概にそうとも言い切れないとも思います。
芝居を作る側は大抵、自分の意図したところの1割も観客に伝わらないものと割り切っています。それなら観客も、芝居を観る90分の内の何一つ見逃すまいなどと貧乏人根性は発揮せず、わかるのは全体の1割と思って見た方が気楽かもしれません。
ただし1分たりとも目を離させない芝居の方が市場原理上強いのは当たり前ということで。クラシック音楽はかつては貴族の宴会のBGM的に流れていたもので、観客がかぶりつきで演者を見るコンサートスタイルはずっと後の世に出来たものです。とすれば、『90分も真面目に観るだなんて』などとのたまえるのは貴族的な、真に高貴な観客と言えないこともないです。ブランディングです。

冬の夜ひとりの旅人が」ですが、本を手に取った読者へ『あなた』と呼びかけながら、『あなた』が別の読者と出会ったり出版社めぐりをしたりする、ある意味二人称小説です。
本を機械に突っ込んで最頻出単語から本の内容を分析したり、本の贋作組織を警察が弾圧したり、色々未来を先取りしてるなあと苦笑しました。とりあえずヘンテコな本でしたが読了。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://tokageexpo.blog.fc2.com/tb.php/264-a350becb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad