トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

演劇と言語ゲーム

「痛い」は、感覚の名前ではない。感覚の名前だと考えると、自分が痛いときだけしか、「痛い」と言えなくなる。相手が痛いかどうか、自分にはわからないからだ。そうではなくて、「痛い」は、自分が痛いとき、そして相手が痛いときのふるまいである。ふるまいだから、お互いに観察できる。自分も相手も、誰もがひとしく「痛い」と言う権利があって、それは、痛いということなのである。――これが、ヴィトゲンシュタインの明らかにした私的感覚の言語ゲームのしくみだ。
誰でも痛みを感じる。痛みがどういうものか、誰でもわかっている。(ただし、誰もが同じ痛みを感じる(と誰もが思っている)のは、誰もが同じ状況で「痛い」と言うこと(痛みの言語ゲーム)の結果なのであるが。)
橋爪大三郎はじめての言語ゲーム」 講談社 2009年 pp.195-196


言語ゲームってどんなゲームだろう、楽しいのかしら」などと思って手に取ったら、半分ほど読んだところでやっと、しりとりも古今東西も関係無い哲学書であることを知ったという。
自分も相手も「痛い」という言葉を知らず、また相手が「痛い」という感覚を知らない場合、自分がどれだけ痛くてもそれは無かったことになります。自分の感覚を「痛い」と呼ぶことを知るために、医学その他専門書はさりながら、文学ひいては演劇は一つの助けになるでしょう。「物語の機能」の回で述べたのと同じことで、物語の登場人物の感覚を追体験しながら、「これこれこうなってこういう感覚を『痛い』と呼ぶ(ことができる)」と知る、カウンセリング的作用があるのです。

また自分の痛みと相手の痛みは異なるため、擦り傷しか知らない子供が狭心症の痛みを知ることは困難です。そういった「痛み」の概念を大ざっぱにまとめて済ますことは、日常ではよく行われますが、それはコミュニケーションの精度を下げます。
演劇では「今この場では、これのことを『痛い』と呼びますよ」と、一つ一つのルールを舞台と客席の間で確認していくことが可能です。みたいな感じのことをsputnik.の鈴木氏が言ってました。確か。そういった細かいルールの積み重ねがsputnik.の良質作品の土台になっているのでしょう。

えーと、なのでまとめると、演劇では現実と違ってルールをきちんと確認し合うことができて、また現実のルール作りにも役立つことがある、演劇ってすごい!というヨイショです。
どちらにしても現実の会話よりも効率が悪い。はたまた小説等他の芸術よりも、時間がかかるしチケット代も高い。王侯貴族の遊戯です。それでも、インターネットの普及によるコミュニケーションの希薄化(笑)が指摘される昨今、貴重なメディアであると思います。

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