トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

円城氏もこういう小ネタを書いておられる

・・・・・・「たとえばわたしはこの文章を書いた」「たとえばわたしはこの文章を書く」「たとえばわたしはこの文章を書いている」「たとえばわたしはこの文章を書くだろう」を機械的に生成することを考える。通常の文章をこの種の中間言語に機械的に変換するのは面倒くさそうだから、最初から中間言語を書くとしておく。現在形を操る技術は、今の自分を支えるもので、過去形を操る技術は回顧を、思い出を、歴史を司る技術であり、未来形はそのまま希望をほしいままにする。ここから想像を一歩進めて、この中間言語を過去形に変換する際には、内容が失われるようにすることだってできるだろう。同じ中間言語に対して、一年前過去形や、十年前過去形とでも呼ぶべき物を設定できるかもわからない。過去形の中にあらかじめ、忘却が仕込まれているシステムだ。過去形に変換することで文章から内容がこぼれ落ちていくわけだ。そこではたとえば、こんなミステリーが可能になるだろう。何人かの証言が中間言語で書かれており、読者はそれを順番に読み出していくことができるが、証言の生成には時間が関係してくる。つまり、証言を聴く順番により、忘却の効果によってその内容は変化していく。中間言語の段階では、相互に矛盾することのない整合的な事件が書かれているのに、過去形がそれを崩していくのだ。これを、読者が事件の真相に至ることの可能な証言の順序をみつけるゲームとみなすことが第一段階。書き手の意地の悪さによって、このゲームは急激に悪質なものとなりうる。というのは、N人の登場人物から証言を順に聴くだけでも、N!の可能性がありうるからだ。十人いれば3628800通りということになる。三百六十二万通りだ。書き方によってはうち一通りでしか真相に至ることのできない小説というものも可能だろう。そうして第二段階としては、証言のとりかたにより、二つ以上の整合的な「真相」が登場するようなゲームも考えうる。その「真相」は中間言語で書かれた事件の真相ではないかも知れず、過去形が新たに生み出した真相でありうる。ただしこの段階ではまだ、中間言語に直接アクセスできる者は、そこに書かれた真相に触れることが可能だ。第三段階として考えうるのは、その中間言語にしてからが、既に矛盾した真実を告げるというものだろう。その中間言語もまた、その前段階の中間言語から生成されたものであり、そこへも過去形の浸食が及んでいたりするわけだ。あるいは単に、石版に硬く記されていた文章が最初から嘘っぱちであった、ということもありうる。こうした形式システムを小説の形に仕上げるなら、たとえば、その種のシステムが存在することを察しながらも、中間言語へのアクセス権は持たない登場人物などが出てくることになるだろう。真理がどこかに記されていると信じているが、自分がそこへアクセスすることはできないと理解している人物だ。その人物の心に疑念が兆し、自分たちにとっての真理は、文章の呼び出し方によって変動するのではないかと疑いはじめ、そうして第三段階の問いへ達するということになるだろう。
円城塔 「プロローグ」 2015年 文藝春秋 pp.158-159


これは、リアルタイム小説の一つの形の様に思います。一回しか読めないとしたら相当にシビアですが、何回もリトライできるならゲームブックとして有りかと。
でもやっぱりこれも、書く人が大変だよねーという。

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