トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

芝居は映画より良いか

芸術作品を技術的に複製する方法のうちで、古代ギリシア人の知っていた方法は二つだけだった。鋳造と刻印とである。ブロンズ像とテラコッタが、また硬貨が、かれらが大量に生産しえた芸術作品であって、そのほかにはなかった。ほかのものはすべて一回限りの作品であり、技術的には複製できなかった。だからこそこれらの芸術作品は必然的に、永遠性をめざして制作された。芸術において永遠の価値を生みだすことを、ギリシア人はかれらの技術の段階ゆえに、余儀なくされていたわけなのだ。その事情のせいでかれらは、芸術史上に抜きんでた位置を占めている。そして後代のひとびとはその位置と比較してみることで、自然の立脚する位置を規定することができる。ぼくらの立脚点が、ギリシア人のそれとは対極にあることは、疑いない。芸術作品が質的にも量的にもこんにちほどに技術的に複製可能だったことは、かつてなかった。ぼくらは映画において、その芸術的性格が初めて隅々まで複製可能性によって規定されているひとつの形式を、もつに至っている。
ヴァルター・ベンヤミン 「ボードレール他五篇―ベンヤミンの仕事2」 1994年 岩波書店 pp.78

この文章、現代人ならデジタルによる複製を思い浮かべるところですが、この後に続く内容はちょっと違って、ななめ読みの私がまとめると「映画はたくさんのテイクの中からベストのものをモンタージュして作ることができる。彫刻や芝居なら一発勝負なのに!」とか「驚いた演技をするのに、芝居なら役者の技量が必要なのに、映画なら単に役者がびっくり箱にびっくりした顔を撮影したら済んでしまう!」みたいな感じですか。つまり映像は同じ演技を何回も再生できる(=複製)ので、彫刻や芝居の様な一回性が無いのです。

役者の演技が日々変わるのは致し方が無いことです。それはお前がアマチュアだからで、プロなら安定した演技ができるのが当たり前だ!と言われたらそれまでですが。
比して映画は役者の一挙手一投足について、全てのベストアクトを毎回再生することができます。それを目指して撮影・編集する過程は、古代ギリシア人が永遠性を求めたことと、さほど変わらないのではと私は思いますがね。そしてそれは芝居では得難いものです。
芝居は各回毎に味わいが変わるのが良い、という程の見巧者はどれだけ居るでしょう。目の前で見れるのがいいんだ、という意見もありますが、映画館での演劇配信がもっと進んで、3Dホログラムとかになったら?演技のモンタージュが可能になるんでしょうか。

常日頃、偉そうなことばかり書いているなと思う訳ですが。
今の日本における演劇の流れみたいなものはあって、そこで私が色々思うことや、身の回りの半径1m位について何とかできることはあるのです。
例えば私が働いて家庭を持って、「今日は芝居の稽古だから晩御飯要らない」と言った時に嫁さんに「私と芝居とどっちが大事なの!休みの日は『トオシゲイコ』とか言って!たまには家事もしてよ!」と怒鳴られたら、何と答えるか。そういう至極現実的な問題に応えられる様になる下地の理論作りをするためのブログなのですよ。たぶん。

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