トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

どうして物語を読むのか

人格の修養のため
「人格の修養」
勇次はおうむ返しに口に出し、
「それはまた、ずいぶん大時代だな」
郁太は首をちぢめ、言い訳するみたいに、
「小説は元来、最新鋭のメディアじゃない」
「なるほど」
「それに時代遅れなのは言葉面だけさ。ためしに『よりよい人間になる』と言いかえてみろ。少しだけ今ふうになる」
「あるいは、人類永遠の関心事っぽくね」
勇次がうなずくと、相手は、
「だろ?」
と身をのりだしたが、口調はあくまでも冷静さを失わず、
「しかしな、勇次、よく考えてみたら、人間はたったひとりで人格高潔になれるものじゃない。もちろん自分自身の意識も大事だが、それ以上に、まわりの人が大事なんだ。仲よしになったり、けんかをしたり。同意を得たり、理不尽なあつかいを受けたり。そういう経験をさんざんして、いわば八方からやすりをかけられることで、人間という金属の棒はようやくかたちが整い、きらきら光るようになるんだな」
「賛成だ」
「問題は、この、まわりの人っていうやつだ。小説はそれをたくさん供給してくれる」(中略)
「新しい出会いなんて年に数回か、十数回か、ともあれ例外的な出来事だ。ところが小説を読むというのは、要するに未知の人物に次々と出会うということにほかならない。もちろん小説にもよるんだろうが、その数はけたちがいだよ」
「主役と脇役がいるだろう。単純には数えられない」
「それは現実の人間関係もおなじさ。浅いつきあいもあり、深いつながりもある」
「それにしても、単に数の問題なら・・・・・・」
「まあ聞けよ、勇次」
相手は軽く手をかざし、すっかり冷めたコーヒーの最後のひとくちを飲んでしまってから、
「これは単なる数の問題じゃ無い。質の問題でもあるんだ」
「質の問題?」
「この現実での出会いよりも、小説のなかでの出会いのほうが、質的に上、っていうことだ」
「身びいきだなあ」
門井慶喜小説あります」 光文社 2011年 pp.114-117


人は何故小説を読むのか、を考える思考の旅が、この小説のストーリーの一つであります。
映画やマンガでもいいじゃないかという議論が作中でよくなされていましたが、小説のマンガ化やアニメ化や実写映画化が一般的な昨今、その辺りは単なる表現媒体の違いと思って良いのでは。
だから何故虚構の物語を読みたい・観たいと思うのか、というのが根っこの問題かと。

翻って何故物語を語るのかというと、それは心理学用語で言うところの『昇華』であると思います。自分は現実をこの様に受け止める(または受け止められなかった)、という認識の完了としてのアウトプットであり、より純粋で洗練されたアウトプットのために、現実そのままではなく虚構を借りるのです。それは画家が富士山をいろんな角度から写生し、絵に描くうちに形がゆがんでいき、『画家が思う富士山』を表すためには現実に見えるものでないものを描かねばならなくなるのと同じことでしょう。「富嶽三十六景」が全て現実の風景の写生ではないのと同じ様に。
そしてそれを受け取る、物語を読むのは一種のコミュニケーションであると思うのです。人が人とコミュニケーションを取りたいと思うのは、無人島に住んでいるのでない限り自然な話。

がしかし上記引用部の意見は作中で勇次氏によって却下されており、その他にも色々な意見が出てきます。
それは結局は一人一人が考えるべき問題であって、全員一致の公式回答が出る様な話でもないので、例えば本作や私の意見を見て「違う!」と思った人が居るならばそれはそれで良いのです。
が学校や図書館といった公共の機関では、過半数程度には同意の得られる回答を用意しなければならないという困った事情があり、その辺の事情は本作の姉妹作であるところの「お探しの本は」で描かれています。と何故か宣伝してみる。
とりあえず、一生に一度は考えてみても良い話ですよね、ということで。

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