トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

古典はつながって行くのだ

・・・・・・それだけなら、『アナバシス』のテーマは悪漢の物語とか英雄喜劇のタネにもなるだろう。一万人のギリシア傭兵が、ペルシャの王子小キュロスのいいかげんな口車にのせられて雇われ、小アジアの内陸地方に遠征して、じっさいはキュロスの兄アルタクセルクセス二世の王位を奪うつもりだったのが、クナクサの戦で敗退し、複数の指揮者を失って、故郷を遠く離れたまま、敵意にみちた住民のあいだを抜けて撤退する話だからである。彼らの望むところはただひとつ、帰国することだけだったのに、彼らの場合、なにをしても人々を危機にさらす結果を招いてしまう。一万人の武装した兵士らは、同時に腹をすかせていたから、どこに着いても、まるでイナゴの大群のように、まず略奪と破壊をおこなう。そればかりか、行軍のしんがりには、ぞろぞろと女を従えていた。
クセノポンは叙事詩にあるような英雄を立てた描き方に手を染めたり、自分たちがおかれた状況の、恐怖と奇怪さがないまぜになった様相を――ごく稀にはそういうこともあるが――愉快とするような男ではなかった。『アナバシス』は、だから、距離、地理的な目じるしになるもの、動植物の資源などを詳記した、一将校の技術的な回想記であり、また、外交上の問題、人員の配置、戦略についての問題集でもあると同時に、それぞれの問題への解答集なのだ。

イタロ・カルヴィーノ クセノポン『アナバシス』 同「なぜ古典を読むのか」 河出書房 2012年 pp.38-39


なかでも愉しんで訳したのは、たとえばクセノポンの『アナバシス』についての文章。まだ少年といっていい年ごろで、対独レジスタンスのパルチザンに参加した経験のあるカルヴィーノにとって、負けるとわかっていた戦争が兵士たちにもたらした苛酷な現実を日々修正して生きなければならない軍隊の物語は、けっして他人事でなかったはずだ。そこからさらに、彼は、最高戦争文学と賞賛されたリゴーニ・ステルンの『雪の中の軍曹』に描かれた、第二次世界戦争のあと、ロシアに取り残されたイタリアの兵士たちが直面した辛酸のかずかずを思い出さずにいられない。

須賀敦子 訳者あとがき 同上 p.390


こういう発見に満ちた本文を読み終えて「訳者あとがき」まで行ったところでまたとんでもない発見があった。それは『アナバシス』を読むカルヴィーノについての須賀敦子の読みということであって、それ故に彼女の文章は本文と同じ重さを持っている。
カルヴィーノに「まだ少年といっていい年ごろで、対独レジスタンスのパルチザンに参加した経験」があることを指摘した上で、敗軍の撤退の話である『アナバシス』に重ねる。その横にはロシア戦線から撤退したイタリア軍を書いたリゴーニ・ステルンの『雪の中の軍曹』への連想もあったと言う(ちなみに『雪の中の軍曹』はぼくが「世界文学全集」に収めようか否かと迷った作品の一つだった)。
大事なのは『アナバシス』の著者であり、ペルシャに侵攻したギリシャ軍の指揮官だったクセノポンについて「他国の領土で、略奪者の群れを連れて歩いているという事実を彼はちゃんと心得ている」とカルヴィーノが書いたところだ。対独レジスタンスの側にいて、言ってみればドイツ兵の側からも戦争を見る視点である。
ここでぼくはこれもまた古典である大岡昇平の『レイテ戦記』の最後のところを思い出す――「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している」。ここで大岡は戦いの当事者ではなく、自国を戦場にされてしまったフィリピン人の視点からあの戦争を見ている。
こんな風に古典は次々につながって行くのだ。

池澤夏樹 文庫版解説――お節介な男を擁護するために 同上 pp.400-401


クセノポン「アナバシス」は紀元前401年~399年のクナクサ(現在のイラク)の戦いの回想録で、詳細はリンク先をどうぞ。
最初のカルヴィーノの文章は「アナバシス」がイタリアで刊行された際の前書きで、初出が1978年。これを日本語に翻訳した訳者のあとがきの初出(この時はみすず書房)が1997年。池澤氏の文庫版解説が2012年。
書物は時間を越えるなあ。というありきたりなオチ。

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