トカゲなる日々

劇団万国トカゲ博覧会の生態

前回の続き

戯曲というものは、劇作家が、人間の力を超えるなにものかと緊張感を以て対峙しているという地点からしか生産されないだろう。人間の力を超えるなにものかと緊張感を以て対峙している地点から生産されていないならば、どのように精緻な会話とどのように巧妙な構造を持った作品も戯曲とは呼べないだろう。シェイクスピア、ベン・ジョンスン、コルネイユ、ラシーヌ、オニール、イプセン、みな一様にその最盛期には、人間の力を超えるなにものかとの対峙に緊張感をみなぎらせていた。

三十年近く前に書いた文章で、今から見ると少々意気込みすぎていますが、ここに挙げた劇作家たちがいずれもその最盛期において、運命、歴史、社会矛盾、そういう不可抗なものと対峙する緊張した姿勢を持っていたことは確かです。
木下順二 「“劇的”とは」 岩波書店 1995年 p75


文中の引用は同著「ドラマとの対話」(講談社、1968年)に依るそうです。孫引きですいません。
そういや前回書いた、偶然とプログラムは人間の力を超えるなあ、と思った次第です。人間を超えるなにものかと対峙している。
では1960年代以前の昔に作家達が対峙していた、運命や歴史や社会矛盾といった問題は21世紀には克服されたのか。そんな訳は無い。
でも現代にそういうものと対峙した作品を書いているのはあまり見ない。というか、もし自分が書けと言われたら、何か古くさくてこっぱずかしいのです。

プログラムを使用した文学作品を新しいと思うのは、新奇な技術を使用しているからというのが大きいですが、プログラムを文学に組み込む方法を『初めて』『自作している』からというのがあるのでは?
社会矛盾と向き合うことはいつの時代にも意義がありますが、社会矛盾と向き合った文学作品が、その時代に見合った向き合い方をしているか、作家が新たに生み出したオリジナルな向き合い方なのか、といえば必ずしもそうでない訳で。
無意識にも前例を踏襲せずに済むという点では、新しいお題と向きあうことは芸術上メリットのあることかもしれません。

あと、前回書いた偶然とプログラムについては、向き合ってはいるけれども対峙=対立したり乗り越えることを目指したりはしてないんですね。
やっぱりその辺も、いかにもイマドキな感じ。

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